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ノルウェーとの同君連合

オーボ条約、そして実際には1812年のカール14世ヨハンの外交政策全体が、スウェーデン上流階級の政治家の間で、激しくそして正当な批判を引き起こした。弱小な友好国を犠牲にしてスウェーデンを保護するのは道徳に背く行為である事は明白であった。そして、フィンランドが決定的に犠牲になっているその間、ノルウェーはまだ勝ち取らなければならなかった。

さらに、カール・ヨハンの第一の義務は反ナポレオン連合にあるという事を英国とロシアは極めて適切に主張した。共通の敵が壊滅する前に無法なノルウェー遠征について国費を支出する事に前者の大国は活発に反対した。ただし彼の非常に無礼な服従の状態で、ノルウェーとスウェーデンの連合(ストックホルム条約、1813年3月3日)を英国も容認する事を約束した。そして4月23日にロシアは同一の趣旨に保証を与えた。

1813年の軍事活動に際して、スウェーデンの皇太子は同盟諸国へ幾つもの重要な軍隊を派遣した。しかしライプチヒの戦闘後、彼は自身のやり方を試みて、あらゆる危険を冒してもデンマークを無力化しノルウェーを安全にする事を決意した。ノルウェー人自身はこれに反対だった。そして、元来意図されたようにノルウェーを併合するのではなく、対等な二国の同君連合を受け入れる事をスウェーデン人に強制し、短い戦争が勃発した。その条件はen:Convention of Mossに定められた。1814年11月4日、ノルウェー議会は憲法を改正し、新しいノルウェー国王としてカール13世を選出した。

ベルナドッテ朝
1818年2月5日、カール13世 (スウェーデン王)が亡くなり、カール14世ヨハンの元でベルナドッテ朝が続いた。新しい王は国家の物質的な発展の促進に専念した。その目的のためイェータ運河には2400万リクスダラー(Riksdaler)の大半が費やされた。スウェーデンの外債は次第に消滅され、内債は大幅に減少した。また予算は平均700,000リクスダラーの歳計剰余を示した。繁栄の回復と共にスウェーデンにおける体質改善の必要性が急を要する事となった。

時代遅れとなったリクスダーグ(国会)は特権的な地位が支配する場所であった。教養のある中流が実質的には代表されておらず、全ての自由な発展を阻む克服できない障害になった。しかし1840年のリクスダーグは議会自身で改正の質問を提起し、王と貴族階級はその受け入れを拒絶した。しかしカール14世の統治は、全体的に見るとスウェーデンに最も有益であった。そしてもし苦情を言う正当な理由が有れば、彼の選ばれた国に対する彼の大きな貢献は一般的に認められた。国外では、彼は主としてロシアとの良好な合意に基づく平和の政策を維持した。

オスカル1世
カール14世の息子とオスカル1世は遥かに自由な傾向が有った。彼は1844年3月4日の即位直後、リクスダーグの前にいくつかの改革計画を立てた。それらの多くは自由主義の法学者Johan Gabriel Richertによって準備された。しかしながら、三階級は時代遅れの結婚と相続の法律、および少数の商業独占を廃止する以上のことはしない。大幅な増税が必要な財政状況になり、民衆は多くの不満を抱いた。その結果として1848年3月ストックホルム市街での暴動となった。それにもかかわらず、議会改革の新たな提案が1849年にリクスダーグに提出された時、それらは4つ中3つの地位から再度否決された。

国外政治に関しては、オスカル1世は強い反ドイツだった。デンマークとプロイセンの間で勃発した1848年から1849年の第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に関して、スウェーデンはデンマークに友好的に同情した。数百人ものスウェーデンのボランティアがシュレースヴィヒ=ホルシュタインへ急いだ。リクスダーグは軍備の追加費用に2,000,000 リクスダラーを可決した。1848年8月26日のマルメの休戦を調停したのもスウェーデンだった。マルメの休戦はデンマークを難局から救った。クリミア戦争の間、スウェーデンは中立のままだったが、世論は明らかに反ロシアだった。色々な政治家はフィンランドを取り戻すためその組み合わせを好都合とみなした。

カール15世
1859年7月8日、オスカル1世は彼が病気の間、既に摂政の役を務めていた彼の息子、カール15世に継承した。法務大臣Louis De Geer男爵の計り知れない援助と共に、カール15世は切望していた憲法改正をついに達成した。その方法は内政改革の抜本的な対策によって1860年に準備された。そして1863年1月、リクスダーグがその時点より二院制になるという会期までに、政府は改革法案を提出した。二院制の上院は一種の貴族院であり、一方で下院の議員は普通選挙によって3年ごとに選出される事になっていた。

新しい憲法は1865年に4つ全ての地位から認められ、1866年1月22日に公布された。1866年9月1日、新制度下での初の選挙が行われ、そして1867年1月19日には新しいリクスダーグが初めて開催された。この一つの大きな改革でカール15世は満足しなければならなかった。その他のあらゆる方向で、彼は多かれ少なかれ彼自身が作り上げたものによって阻まれた。リクスダーグはカール15世が特に関心を持っていたスウェーデン軍の改革計画を認可する事を拒絶した。カール15世がその生涯を懸けて得ようと努力したプロイセンを模範とする計画だったが、一部は経済的理由により、一部は国王の好戦的な傾向に対する不安により拒まれた。

1864年、カール15世はデンマークと反プロイセン同盟を形成しようと努力した。またデンマーク敗北の後にはカール15世は、北部におけるプロイセンの優勢に対抗するため、フランスの助けを借りて(望ましい)スカンジナビア連合を計画した。この政策は1870年にフランス帝国が転覆した事により自然と破綻した。カール15世は1872年9月18日に亡くなり、後にオスカル2世として統治する彼の弟(エステルイェートランド地方の公爵)が継承した。

連合の状態
国王オスカル2世の治世におけるノルウェーとの関係は、スウェーデンにおける政治生命に大きな影響をもたらし、2カ国間の連合が一度ならず破壊しようとしているように見えた。その軋轢は主に、個別の領事、そして最終的には個別の在外業務をノルウェーが要求した事が起源であった。ノルウェーは(1814年の憲法に従い)領事館を分離する権利が有ったが、一つには財政上の理由により、また一つにはスウェーデン外務省によって任命された領事は一般的にはノルウェーを代表する満足な仕事をしたため、その権利を行使していなかった。

無駄な交渉と議論の末、1895年についにスウェーデン政府はそれまで二国間に存在した通商条約が1897年7月に期限が切れるという事をノルウェーに通告し、そして(リクスダーグの決定に従い)中断し、またその時ノルウェーが関税を上げたので、スウェーデンの対ノルウェー輸出が著しく縮小した。ノルウェー人に対して過剰に友好的であると見なされたスウェーデン外務大臣Count Lewenhauptが辞任し、後任には第一院における主流意見を代表するCount Ludvig Douglasが就任した。しかしながらノルウェーのストーティングは、国王オスカルが最終的に認可した、国旗または「純粋な」旗の法案を(3度目に)可決した時、Count Douglasは任期中に辞任し、在ベルリンスウェーデン大使Lagerheimが後任となった。Lagerheimは連合の問題をより静かな海へ導く事を成し遂げた。

彼は1900年のリクスダーグに新しい選挙としてより一層良く成功した。スウェーデンの人々が超保守的な所謂「愛国的な」政党に従う傾向が無い事を明らかにした。それら政党の2名の代表、Oscar Alin教授と第一院議員であるCount Marshall Patrick Reutersvärd、が退陣するという結果となった。その一方で、ヨーテボリ大学の元教授E. Carlsonは、約90人の議員でLiberals and Radicals党の結党に成功した。E. Carlsonは市民権の拡大に賛成した他に、外交問題の管理でノルウェーとスウェーデンの完全な平等を提唱した。

ノルウェーとの関係に関して、しばらくの間は静寂の状態が続いてたが、長くは続かなかった。ノルウェーのため領事を別々にする問題はすぐに再び取り上げられた。1902年にスウェーデン政府は、本件の交渉はノルウェー政府に対して率直にすべきであり、また両国の代表により構成される合同委員会は、2ヶ国の既存の外交事案の管理に決して干渉する事なく、領事館を分割する問題を考慮するため任命されるべきである、という事を提案した。

その交渉の結果は1903年3月24日付けでいわゆる「コミュニケ」(共同声明)で発表された。とりわけ、共通の外交問題と大使館に対する別々の領事館の関係は同一の法律で取り決めるべきであり、それらの法律は両国政府の同意無しでは改定や廃止できない、という事が提案された。1904年5月にノルウェー政府が提案した、それら同一の法律のための提案は、スウェーデン政府の賛同を得られなかった。それらの返答でスウェーデン政府は、スウェーデン政府がその権限を逸脱するのを防ぐ事と同じように、スウェーデン外務省はノルウェー領事に対する支配などをするべきであると提案した。

しかしながら、ノルウェー政府はこの提案は容認し難いと判り、もしそのような支配が主張されたなら、今後全ての交渉が無意味であると説明した。ノルウェー政府はスウェーデンの要求がノルウェーの主権と両立しないという事を主張した。外務大臣がスウェーデン人であり、その提案されたノルウェー人の領事業務がノルウェー人の機関として外国の支配の下に置く事はできなかった。スウェーデン政府による新しい提案は同様に拒絶され、1905年2月にノルウェー人は交渉を打ち切った。それにも関わらず、協定は論外とは思われなかった。単独で領事の課題を解決するための全ての取り組みは失敗した。しかし、完全な連合の原則の上で外交上の問題の共同管理で共同で個別の領事を確立する事が試みられる可能性が有ると考えられた。

国王オスカルの病気の間に摂政に任命された、皇太子グスタフは2ヵ国間の交渉を再開する主導権を取った。また4月5日にスウェーデンとノルウェー連合の枢密院において、2つの王国の間の完全な平等に基づく外交事務と領事業務の管理と、連合の存在のための条件として「スウェーデンまたはノルウェーの」共同の外務大臣を(しかし慎重な姿勢を示しながら)、両方の改編の提案した。この提案は1905年5月3日スウェーデンのリクスダーグに承認された。交渉の再開に差し障りの有る障害は無いべきであるため、Erik Gustaf Boström]首相は辞職し、Johan Ramstedtによって引き継がれた。しかしながら、提案された交渉は再開されなかった。

連合の解消
5月23日、ストーティングはノルウェー独自の領事制度を設置するという政府の提案を可決し、国王オスカル2世が、再び政府を統制して、憲法に規定されている拒否権を行使すると、ノルウェー内閣は総辞職を申し出た。国王は総辞職を認められない旨を告げたが、内閣は6月7日にストーティングに対して総辞職を申し出た。

ストーティングは、国王が内閣を形成できない場合には、その憲法上の権能は「効力を停止する」との決議を全会一致で採択し、内閣は、更なる指示のあるまで、国王に付与されている権力を行使するよう要請された。そして、オスカル2世は「ノルウェー王」としての務めを停止したのであるから、スウェーデンとの連合は解消される、と決議された。

このような急展開に備えていなかったスウェーデンにおいて、ストーティングの行動は最大限の驚異と憤激をもって受け止められた。国王はストーティングの行動に厳粛に抗議するとともに、この6月7日のノルウェー人の「反乱」によって突然惹起された連合問題への対応策を諮るため、6月20日 にリクスダーグの臨時会を招集した。

リクスダーグは、ストーティングが選挙の後に両国間の連合法の廃止を提案するか、ノルウェー国民が国民投票によって連合解消への支持を示した上でこうした提案がなされるならば、連合解消の条件に関する交渉には反対しないと宣言した。さらにリクスダーグは、準備のために1億スウェーデン・クローナが確保され、リクスダーグの決定に従って使用されるようにすべきであると決議した。Ramstedt内閣の総辞職により、Lundebergがリクスダーグの超党派による連立内閣を形成し、その後、8月3日にリクスダーグは休会された。

8月13日にノルウェーで行われた国民投票の結果、連合解消への賛成が368,392対184という多数で決定された。ストーティングはスウェーデン政府に連合法廃止のための協力を要請し、両国代表の会議が8月31日にカールスタードで開始された。9月23日に両国代表は合意に達した。両国のこのような紛争は、直接的な外交交渉によって決着しえないが、双方の重大な利害に関わるものではなく、ハーグ常設仲裁裁判所に付託されるべきである、というのがその要点である。また、両国の南部国境の両側に約15kmの中立地帯を設定し、そのノルウェー側では8か月以内に要塞が撤去されると定められた。

また、別の条項では、サーミ人(別名ラップランド人)がどちらかの国に限ってトナカイを放牧する権利、鉄道その他の手段で国境を越えて物資を輸送する権利が認められ、交通を妨げるいかなる輸出入の禁止もなされないこととなった。

10月2日から10月19日まで、リクスダーグは再び臨時会が召集された。カールスタード会談における合意と、連合法を廃止しノルウェーを独立国として承認する政府の提案がともに承認された。また、スウェーデンの国旗の変更も決定し、連合の標識の部分が空色に置き換わった。

ストーティングはベルナドッテ家の王子をノルウェー王に選出すると打診したが、スウェーデン国王オスカル2世は既に自らと子孫がノルウェー王位を放棄すると宣言していたため、これを辞退した。連合解消問題に対応するためだけに組閣していたLundebergは辞職し、カール・スターヴを首班とする自由党内閣が後継となった。

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2009年04月15日 10:08に投稿されたエントリーのページです。

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